火曜日, 07.09.2010


より大きな輪の中で PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

桐生たう

 

 彼女の名前はアイリス。私もよく知る娘だ。本名かどうかは分からない。私がこの街に来てから通うようになったバーの店員だ。

 木目を基調とした造りのそのショットバーは平日でも繁盛しているが、週末ともなるとスーツ姿やポロシャツ姿の男女で埋め尽くされる。陽が落ちると、薄暗い橙色の灯に大きなカウンターが浮かび上がる。その中に彼女はいた。オーダーを聞き、ビールやソーセージをサーブする。それが彼女の仕事だ。

 数人の店員が交代でカウンターに立ったが、最も長い時間彼女がそこにいた。薄茶色の髪、肌の色は白よりも澄んだ白、目鼻立ちのはっきりした顔で個性的な美しさを持った女だった。カウンターの中を小刻みに移動しながら酒を注ぎ、料理をサーブする。手足の動きがひとつひとつ繋がり、一つの大きな流れを作る。しなやかで柔らかい印象。忙しい時でも、暇な時でも押し付けがましくない彼女の流れは変わらなかった。白いシャツと黒のベスト、タイトスカートというユニホームに包まれた彼女にいくつもの私生活が透かして見えたが、それらが本当のものであるはずがなかった。
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コウちゃんの罠 PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

硬結田信樹

 

「これは……使えるかもしれないな」

「え? 使えるって、な、なにが。まさか、あ、あの死体?」

「死体……か。そうだな、頭がぱっくり割れているものな。死んでるだろうなあ、あれは」

「それを、なんに使うっていうの?」

「うるさいな、ちょっと黙ってろ。う〜ん……」

「ねえ、うしろから車来たらどうすんのよ」

「来るもんか、こんな真夜中のこんなドシャ降りの田舎道」

「だって現にあたしたちのすぐ前を車が一台走っていたじゃないの」

「そう、そしてふらっと飛び出してきたあの男を跳ねとばして、逃げてったわけだ。

 なあ、ナオミ。逃げてったあの車な、あれが跳ねたんだ。俺らはなにも悪いことをしていない。万一、後続車がやってきたって平気だろう。だからな、お願いだよ、少し黙っててくれ」

「でも……」

「ナオミ、おまえ俺と結婚したいんだろう? 俺たちが結婚できないネックってなんだ。金、の問題だよな。その厄介な問題をクリアできるかもしれない、千載一遇のチャンスなんだよ」

「……あたしたち、結婚できるの? 本当、コウちゃん」

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月の夜に PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

桐生たう


 ジンは仕事の帰りに家に近い店でワインとチーズを手に取った。もう一本何か酒を買おうとも思ったが、結局そのままレジへ向かった。

 店の女は彼にお釣りを手渡しながら、良い週末を、とにこやかに言った。

 彼も良い週末を、と言った。

 足取りは彼が自分で分かる以上にとても軽やかだった。店の中で、店を出てからの道で、彼と会う人は、知る人知らない人にかかわらず皆微笑んで、彼らのほうから言葉を交そうとした。

 彼はなるべく上機嫌で家へ帰ろうと思っていた。今日のような日には必ず、努力してでもそうしようと思っていた。しかしその必要もないということで、彼はとても気分が良かった。

 新しく始めたばかりの仕事は悪くなかった。

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自尊史観とはファシズムの歴史観にほかならない PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 評論

自虐史観と自尊史観—歴史教科書批判について

三宅 秀典

 中学、高校の歴史教科書批判が活発になっているという話は聞いていた。だが、愚かにも私はこの批判は、家永三郎 の教科書裁判の流れの中のことだろうと思っていた。すなわち文部省の教科書検定が日本のアジア侵略や、南京大虐殺、慰安婦問題を教科書に掲載するのを相変 らず拒んでいるのかとぼんやり考えていた。

  しかし、半月ほど前に東京新聞に掲載された、教科書出版社に対する右翼の脅迫事件などの記事を読んで、私は自分のうかつさに気づかされた。これはまったく 逆なのだ。「従軍慰安婦」問題を教科書に載せるのはけしからんと文部省に抗議しているというのだ。しかもそれはいわゆる右翼の活動だけではないらしい。

  「従軍慰安婦」に関してジャーナリストの櫻井よしこが、その存在は認めるが軍や政府の政策だったことを示す資料はまだ見つかっておらず、従って、「従軍慰 安婦」は軍や政府が直接強制的に連行したとは言えない、などと発言して批判されたことは知っていたが、このことが現在の教科書批判の大きな問題になってい たとは知らなかった。まったくうかつであった。私は櫻井の発言を新聞で読んだとき、「なにとぼけたこと言ってんだ」くらいに考えていた。こんな発言をする とは、批判されて当たり前だし、ジャーナリストとしての資質を疑われてもしかたがない。

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月の夜に PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

桐生たう

 ジンは仕事の帰りに家に近い店でワインとチーズを手に取った。もう一本何か酒を買おうとも思ったが、結局そのままレジへ向かった。

 店の女は彼にお釣りを手渡しながら、良い週末を、とにこやかに言った。

 彼も良い週末を、と言った。

 足取りは彼が自分で分かる以上にとても軽やかだった。店の中で、店を出てからの道で、彼と会う人は、知る人知らない人にかかわらず皆微笑んで、彼らのほうから言葉を交そうとした。

 彼はなるべく上機嫌で家へ帰ろうと思っていた。今日のような日には必ず、努力してでもそうしようと思っていた。しかしその必要もないということで、彼はとても気分が良かった。

 新しく始めたばかりの仕事は悪くなかった。

 仕事は隣町の小さな工場での作業だった。そこは自動車の部品やらなにかを作る工場だった。働くことになれていなかった彼にとって、工場での仕事は肉体的にとても苦しかった。しかし汗水流して働くことは決してつまらないものでもないことが彼にはよく分かっていた。より良く暮らすためには金が必要だったし、そのためには労力を惜しまないことが、より良く暮らすことの条件の一つであると思っていた。

 彼は汚れた作業着を見るたびに、手に染み込んだ油を石鹸で洗い落とすたびに、積み重なっていく満足を感じた。働くことによって、日に日に自分が浄化されていくような気がした。

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三十二秒 PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

氷見公美恵

「買い過ぎたな…」
 ペットボトルばかり入ったコンビニの袋が、左手に食い込んでいた。まだ八時前だというのに、人影は無い。歩道には僕の左足を打つ、買い物袋のガサガサという音だけが響いていた。まだ蝉は鳴き止まない。アパートまでたどり着くと、バッグを大きく縦に振りながら鍵のありかを聴き、ドアを開ける。荷物を放り出したまま冷蔵庫に向かい、牛乳パックを飲み干す僕の顔は、冷蔵庫のやわらかなオレンジの光に照らされている。


 春少し前から、このアパートを暗室として使っている。明日は大きなコンテストの作品提出日だった。年に三回あるこのコンテストに出すのは、これで十二回目。賞を取ると、広い会場で個展を開けるのが魅力だった。
 それにしてもこの部屋は暑い。クーラーだけではない。家賃二万円のこの部屋には、普通 の部屋に欠かせない要素である物のすべて—例えば、トイレとかお風呂とかいう類の物は何も無かった。六畳の中にあるものといえば、大きな流し台だけだった。
 現像液が気化しているのだろう。部屋中にその臭いがあふれ、むせ返るようだ。


 このアパートには、僕の部屋も含めて三つしか部屋がなかった。下は車庫の、本当に小さなアパートだ。近所に住む人たちの多くは、そこにアパートがあるなんてたぶん知らないに違いない。そんなところだ。
 真ん中のこの部屋は、壁が薄いせいか両隣りの声など筒抜けで、小声でさえも聞こえてくるようだった。写 真を焼いている時は、なおさらだった。暗闇の中で聞こえてくる音を聴く時の耳は、僕とは別 の人格を持つ。

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太陽とかわうそとぼく PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

片寄窓吉

 

 目覚めたとき、だれかが月へ向って出発したような気がしていた。

 電灯の傘に太った蝿が一匹貼りついている。くもりガラスの窓に牛乳壜の影が一本。なんのへんてつもない朝なのだ。

 ぼくはのろのろと起き上がりコーヒーをいれる。二千年も昔、エジプト人が好んで嗅いだ香りをちょっぴり楽しみながら、ぼくはハレー彗星がもう一度現われるまで生きてみたいなどと思ったりする。

 何億光年もの光りが交錯するまるい夜空の下で、ぼくはK子と唇を重ねた。

 「子どもを生みたい」

 とK子は言い、K子の言葉が吸い込まれていった澄んだ大気の気配を、ぼくはいま、ふと思い出している。

 配達されたばかりの新聞をひろげる。ぎっしり詰まった活字のなかに、ぼくは世界のどこかで、ぼくと同じようなことをしている人間のことなどを想像する。

 焼け過ぎたトーストにバターをぬりたくる。K子と別れて部屋へ帰ったのはかなり遅い時間だったが、それからぼくはビデオのウエスタンを見てしまった。まだ眠気がとれていない。

 テレビをつける。ぼくが気象情報に注目するのは暑いとか寒いとか、お天気だとか雨だとかいう日常の必要性からではない。それはぼくにとって、宇宙を知るための最も手軽な情報のひとつだからだ。当分、素晴らしい秋日和が続きそうだ。

 窓を開ける。蝿が一匹まちかまえていたように外へ出て行った。

 「おーい、太陽!」

 とぼくは窓から呼びかける。お天気のよい日の、これは太陽へのぼくの挨拶なのだ。

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赤提灯 PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

桑名圭太郎

あれれっ。 思わず自転車のブレーキをかけていた。
 商店街の通りを足早に歩いてきた出勤途中のOL風が進路を阻まれ、露骨に顔をしかめて白い息を吐き吐き淳一の脇を通りすぎていく。
 米屋の軒下に吊るしてあった看板が消えていた。
 濃紺の地に白抜きで大きく米と書かれ、その横に「おこめ」とある看板である。
 淳一は、それをわざとおめこと読みちがえ、「なんともはや」と胸のなかで呟いてから、駅へ向かうことを朝の儀式にしていた。
 その看板があるべきところにない。
 昨夜の北風で飛ばされたのか、それとも米屋のおやじが恥ずかしさのあまり、外してしまったのかノノ。
 朝、歯を磨くことを忘れて家を出てきてしまったような、一日の始まりからひどく調子を狂わされた、すっきりしない気分で駅へと急いだ。

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バニーガールのためいき PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

本田ノリコ

みんとたいむものがたり●3

 オレがこの街を優しいと感じたのは、オレと同じくらい汚れていたからなんだと思う。ここにいれば、オレの醜い部分があまり目立たない、確かにそうだった。

 十分金を持っていたら、新幹線に乗って東京駅に着いただろう。少し知恵があったら東海道線に乗って品川駅に立っていたはずだ。でもオレにはその頃金も知恵もなかった。小田急線に乗っていれば、いつか東京に着く、そんぐらいしか知らなかったし、そんぐらいの金しか持ってもいなかったんだ。

 小田急線の急行に乗ってオレがはるばるたどり着いたところは、当然新宿で、しかもオレは新宿駅の中で迷子になっちまって、やっと地上に出れたと思ったら、そこがこの街だったんだ。

 歌舞伎町ってところは、汚くて、ごみごみしてて、訳が分からないぐらい人がたくさんいて、ヤバそうな雰囲気のするところだったよ。オレは一目でこの街が気にいった。いや、気にいったって感じじゃねえな。何て言うか、オレをかくまってくれそうな気がしたんだよ。

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短歌●徒然 PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 詩歌

才外幸次郎

正月の 夢忘れる 一番目の妻の夢見 我後悔時

バースデイを 独り涙でビール呑み 第二の人生のスタート切る

新年に決意表明を 必ずや復活復帰 我意地通する

YESと素直に言えない吾なり もし素直にYESと言えたら

春の風 バックひとつで寮を出る 会社辞める ホント自由や

年賀状 一通もなき年始め 我が情況 吾が身なりや

会社を倒産した日 いみじくも国際反戦デー一〇・二一なり

シンドラーのリストを読み終えた時 そんな勇気が我にあるかと

久しぶりに 会社の寮の熱いシャワーを浴び 倒産苦を忘れ
 
ヘソの樹 PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

ロコロコ・ウガズンダ・カラビリナ

 

 欝蒼とした熱帯雨林のほぼ中央にオレが暮らしているカラヒリ村はあった。村といっても、八六歳になる長老を部族の長とした、せいぜい三〇人ほどの集落である。

 オレのジイさんのそのまたジイさんの頃は、この近辺を統治するほどの勢力を誇った大部族だったらしいが、いまでは当時の権勢など見る影もないほど弱小部族に没落している。そのことがオレを含めた若い連中の不満だった。

 オレたち若者は部族の中心となって、日々の糧を得るために、鍛え上げられた肉体と先祖伝来の技術を駆使し、部族を餓えさせないようにあくせく働いていた。

 もっと近隣まで勢力を伸ばせば、年寄りや女・子供たちが毎日豊かに暮らせるだけの食料が手に入る。その場合、他の部族たちと多少のトラブルはあるかもしれないが、勝利者となるだけの自信はあった。

 しかし、この村では長老の言うことが絶対だった。

 「ロコロコよ、決して他の部族と争ってはいけない。お前たちはまだ真の勇者とは認められない。黙って私の言うことを聞いていなさい。ああ、それといつものことだが、南の砂漠にある『ヘソの樹』には絶対に近づいてはならぬ 。その掟を破った者は必ずや神々の怒りにふれることであろう」

 長老の答えはいつも決まりきっていた。

 ロコロコというのはオレの名前で「森の狩人」という意味である。この部族の次期のリーダーとなる男には代々この名前がつけられていた。

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平成寄席 仇討ち解禁 PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

福々亭塩大福

 

 えー、世の中には理不尽なことがたくさんございまして、悪い奴が大手を振ってまかり通って、それが許されるようなことが往々にしてあるようでございます。この間、逮捕されました日本ハウジングローンの前社長なんてぇ、おエライさんも、天下の東大法学部卒で日本興業銀行出身、まっ、われわれみたいな商売から見るってぇと、超のつくエリートでございますな。それがあぁた、母体行の言うことも社員の言うことも聞かずに、不動産会社にやれ借りろ、ほれ借りろと、まぁ壊れた蛇口のように金を貸しまくりまして、ものの見事にパァ。出身の日本興業銀行から数百億も金を引っぱり出しまして、これも見事にパァ。パァが続けば次はバーディーか、んなノーテンキなことを言ってる場合じゃありません。そんだけ焦げつきを出した日本興業銀行も日本興業銀行で、いま日本で一番給料が高いのがこの銀行だ、ってんだから、あぁた、開いたガマ口がしまりませんやね。何でも三五歳の平均年収が一二五〇万円。こっちは四五歳で二五〇万円だ。どうだ参ったかっ!ってエバッてる場合じゃないんだけどねぇ。

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恋は遠い日のコダマであった! PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 身辺雑記

梅之助

 

 いつもいろいろとお世話になっております。ウチの社員共のつたない文章でお目を汚したこと、平にご容赦願います。「文は人なり」を日頃実践している私としましては、まさに身の置き所もないほどの恥ずかしさでございました。社員の恥は私の恥、そのお詫びとしまして公共の誌面をお借りして、私コダマが磨き上げた写植屋魂のほんの一端を、全国津々浦々の皆々様にご覧にいれまする。 

 今から三十年程前、あれはたしか、ほのかに風薫る春の、とある一日の出来事でございました。私コダマが今日の地位を築き上げるにいたったお客様(=神様)のもとへと、本郷菊坂のゆるやかな道のりを歩いていたと思いなさい。

 両側の桜並木から時折、ひらひらと花片が舞い落ちる風情はまさしく、青春映画のワンシーンにも似て、そんな中を颯爽と歩く青年(オレだよオレ!)に恋する乙女がいてなんの不思議がございましょう。そうなのです。あの日、あの頃、あの場所で、コダマ青年は一人の女性に惚れられてしまうのでありました。

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滅びより確かな旅立ち PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

硬結田信樹(かたゆたしのき)

第1章 手 記

 半月後にはおそらくこの世にいることのない人が、私のかたわらで安らかな寝息をたてている。

 彼ひとり残し、私は病室を出た。

 この町で一番大きな病院は、この町で何番目かに大きな建物だから、屋上に出れば、この町の全部を見渡すことができた。屋上の周囲を檻の柵みたいに巡る鉄の棒に、私は触れてみる。生きている人たちと、死ぬ人との境界は、太くて頑丈で、冷たかった。乗り越えられない堅牢さだった。私はそれを握りしめた。乗り越えられないのだ。医者は奇跡が起きてもあと半年だといっている。乗り越えられないのだ。奇跡は起こるだろうか。けれどもし奇跡が起こっても、この柵を乗り越える方法は、しょせん、ないのだ。

 彼と結ばれたい。残り時間がどんなに短くてもいい。彼を私だけのものにしたい。私は切実に、彼との結婚を望んでいた。私は握りしめた鉄の棒を狂ったように揺さぶったが、檻の柵は、びくともしなかった。

 病室に戻ると、彼は目を開けていた。

「起きてたの。どう、調子は」

 パイプ椅子をひき寄せながら、私はいつもの屈託なさで話しかける。

「うん、まあまあ、だね」

 弱っている人に特有の、ぶれた声で、彼は答えた。こんな声しか出せなくなってから、もうどのくらい経つのだろう。でも、きょうの彼はいくぶん元気そうにみえた。少しくらいお喋りをしても、そう疲れることもなさそうだ。私は脇のテーブルから、林檎と果物ナイフを手にとった。

「食べられるでしょ?」

「え、うーん」

「食べなきゃだめよ」

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蝉鳴忌−雨の日の記憶 PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

片寄窓吉

 今日、私は銀座の人混みのなかで及川二郎を見かけた。

 「またそんなひとを……たしか去年も同じようなことをおっしゃっていました。ちょうど今頃でしたわ」

 妻の紀子は何か言いたげな口ぶりだった。

 及川二郎は私より十歳年上だったから、もうまぎれもなく老人であるはずなのだが、私が見かけた及川二郎は、長身をちょっと腰を曲げて山帽をかぶっていた。それはあの当時のままの姿だった。

 「それで声をおかけになったのですか」

 「いや、すれ違って『及川さんだ!』と思ってすぐに振り向いたときには、たしか後姿を見たような気もするのだが、人混みのなかに入ったら消えてしまっていた」

 妻が言うように私は去年も及川二郎を見かけている。地下鉄・銀座駅のエスカレーターですれ違ったのだ。

 私は来年古希を迎える。年を重ねたことで私は、この現世の中に私しか見えない何かが見え始めてきているような気がする。

 「わたし、いまだにわからないことがあります。及川さんがいなくなって、あのとき、どうして私たちの結婚を二年近くも延ばしたのかしら?もう四十年も昔のお話……」

 妻は私からの答えを得ようとするふうでもなく、すぐに話題をかえた。

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試みの地平線(第1回) PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

飯森英視

 

 タメ子が作る料理はいつも決まって質素なものだ。塩干しの魚に味噌汁、それに冷蔵庫から大事そうに出してくる梅干しなどだ。きっとくにの母親が送ってくれたものなのだろう。

 一度俺になにが食べたいか尋ねたことがあったが、俺は食べたいものなどない。そう言うとタメ子はちょっと悲しそうな表情を見せたが、それ以後尋ねようとはしない。

 朝食を食べない俺をタメ子は不思議そうな顔で見たが、毎朝必ず二人分の食事を用意する。それが俺の昼食というわけだ。

 保温された炊飯器の飯と冷たい味噌汁、それだけあれば十分なのに、タメ子は自分の朝食より一品余分に用意して出かける。俺はその食事をウィスキーで流し込む。タメ子が買ってきてくれたウィスキーだ。

 食べるものはいい、安物でかまわないからウィスキーを買ってきてくれと言うと、タメ子が嬉しそうな顔をして俺の前に差し出したのは、バランタインの十八年ものだった。

 この酒を俺が飲むのか……

 俺はこみあげてくる笑いを押さえきれなかった。

 皮肉な笑いと見えたのか、不安そうな声でタメ子は

「嫌いだった……」と尋ねる。

 俺はそれには答えず、次からはもっと安いものでいいと言うと、ホッとしたような顔でうなずいた。

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