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ぶんぶんぶん -
エッセイ
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桐生たうHeaven Hill この丘からはすべてが見える。
この丘からはどんなに小さいものも見ることができる。
陽の当たる坂道での幼子のいたずらや、街灯のちらつく裏道での酔っ払いの独り言。
冷たい風の中のいたわりの眼差し、ぬるい空気の中で企まれる陰謀。
寝覚めた独り寝の冷たい憤りも、ささやかに営まれる木々の息吹も、
隠されるべき優しい真実も、明かされるべく黒い真実も、
ここからはそのすべてを見ることができる。
この丘では、人は嘘をつくことができない。
この丘で、人はみな裸にならなければならない。
人はこの丘で、覚えのない賞賛を受けることもあるし、
人はこの丘でどんな小さな罪も償わなければならない。
小さな丘だ。
なんの違いがあろう。
どんな丘とも。
それでもこの丘からはすべてが見える。
この丘からはどんな小さなものも見ることができる。
木の実小径 「ほら、この実をかじってごらん」
母は、低くて華奢な枝にくす玉のようになる、小さな実を指差した。
「なんだか木の実というよりは、種みたいだね」
母はちょっと笑っている。その顔が、幼い私にも子供のように見えた。いたずらをしかけているときのような無邪気な笑顔。私には自分よりも幼く思えた。
「いいから、ちょっとだけかじってごらん。ちょっとだけだよ、ちょっと」
すでに日は落ちて、辺りは薄暗くなってきている。下に見える街の夜景が、少しずつ、にぎやかになっていく。
今日は週に一度の母に会う日だ。私は週末だけは、母に会うことを許されていた。理由は知らない。平日は父と生活をして、週末だけ母が迎えにくるのを待ち、二人で歩いて丘を越える。母は私を迎えにくるとき、一人でこの丘を越える。
私は、父も母も大好きだ。でも今は理由があって別々に暮らしている。とはいえ、歩いて行き来できる距離だ。でも私は約束を破ったことはない。父に内緒で母に会ったりはしないし、母にわがままを言って困らせた覚えもない。離れてはいるけれど、父と母はうまく生活していると思う。
父とは時々お外でごはんを食べる。よく食べるのはうどん。私は父と違って辛いものが苦手。食べたら、お風呂に入った後のように、汗をかすいてしまうのだ。親子でどうしてこんなに違うのだろうと不思議に思うことの一つだ。
「味わかるの?」
「大人になればわかるよ」
父はそう言ってくまたふぅふぅとうどんに戻ってしまう。
「ふうん」
私はエビ天で、薄味のほうが好きだなあと思う。
母はよく笑う人だ。とても穏やかに、楽しそうに笑う。
一人で暮らしていても、その生活を楽しむ余裕のある人。
私は母の家に遊びに行くことが大好きだ。もちろん父との生活だって、楽しいけれど、週末の母の家は私にとって「遊びの国」だ。特に私が好きなのは、お風呂。背中の当たるところにタコのお口(チューちゃん、と母は呼んでいる)が足を伸ばせば土踏まずに当たるようにカメの甲羅のおもちゃ(かめぞう)がくっつけてある。湯舟につかって母は、それは楽しそうな顔をするのだった。窓際の、押すと「ブー」と鳴るアヒルの「ガーコ」も魅力的。寂しそうだなんて、考えてしまうことは、かえって母を悲しませるような気がしていた。
「ほら」
母は負けていない。何か企んでいることはわかっているのだけれど、母の笑顔の意味がわからない。
「かじってごらんなさいな」
私は母の勢いに負け「しようがないなあ」と言った。
「ふふふ」
まるで子供だ。それでも突然真顔で「ちょっとよ、ちょっと」と付け足した。
実を枝から取る。茶色っぽい、かさかかさした感じ。実はとても小さい。五円玉の穴くらい。もっと小さいかもしれない。匂いもよくわからない、風が強いせいかもしれない。そういえば木々が風を切る音がする。よく見ると—手のひらに実を一つのせて、ころころとさせていた。
その母の横顔があまりに美しかったので、びっくりした。初めて見る母の表情。子の欲目ではないが、母はなかなかの美人さんだった。ぜんぜん私と似ていない。私の顔は父似だ。母みたいに鼻なんかスッとしてないし、唇ももっとなんかだらしない感じ。目にいたってはパッチリ二重の母とは正反対の、はっきり一重。ああ、どうして私は母に似なかったのだろう。
自分のため息が母に聞こえてしまったかもしれない、と私は我に返った。それでも母は私なんかいないみたいに、私に何か企んでいたことなんて忘れちゃったみたいに、まだころころさせていた。
一人の時は、母はこんな顔をしているのだろうか? あんなに面白いお風呂につかっているときも、モーターちゃりんこに乗っているときにも、私を迎えにくる一人道のこの丘で、こんな顔をしているのだろうか?
なんだか急に胸の奥がきゅっとなって、私は小さな小さな実を強くつまんだ。実は堅くて、ちっとも形を変えない。指先がちょっと痛い。
「どおしたのよお」
「えっ?」
母は美しい横顔をいつもの人なつっこい笑顔に変えて私を見ていた。
「こわいの? いくじなしねえ」
そういって、ふふふと笑った。
私は嬉しくなって「そんなことないもんね」とふくれてみせた。やっぱり母は笑っているときのほうがかわいい。私のお母さん。
「さ、かんでごらん」
「うん」
私は思いきり小さな実をかんだ—。
「うわあ!」
母は私の声と同時に大声で笑い出した。
口の中がピリピリしてカッとしてる。
ペッペッと唾を吐いて母をにらむと、母はまだ笑っている。おなかを押さえながら、座り込んでしまっている。
「ごめんごめん」
立ち上がりながら母は言った。その目には涙。さっきの顔が重なる。
「さんしょよ、さんしょ。七味に入っているやつ」
父の好きな七味。また胸がきゅっとなる。
それでも私は負けない。
「いじわる。今日のごはんは私の好きなものなんでもリクエストするからね」
「じゃあ、うなぎにする?」
くすっと笑った母がきれいだった。
母が再婚したのは、それから半年くらい後のことだった。
父はそのことについて私に何も言わなかったので、私からも何も聞かなかった。
私は週末ごとに母のところへき遊びに行かなくなったが、それでも会いたくなったときには、前みたいに二人で会った。でも母は引っ越してしまったので、一人で丘を越えてくることはなかった。
「そんなにかけて、味わかるの?」
向かいに座った彼が私のうなぎを見て言った。
「いいの、いいの」
私はまおもさんしょをかけ続ける。
「味、変わっちまうぞ」
彼は呆れ顔で肝吸いをずずっとすする。
「大人になればわかるようになるよ」
小さな声で言ったのだが彼に聞こえてしまった。
少しふくれたふりをして彼が言う。
「僕は大人ですっ」
「そうじゃないのよ、ふふふ」
近頃笑い方が母に似てきたような気がする。相変わらず顔は似ていないけれど。
あのときの、丘での母がきれいに見えたのは、きっと父と母がうまくいっていたからだ、と大人になりかけた最近、そう思う。
箸を割って、私も肝吸いをずずっとすすった。
木の実の小径、丘の上。大人になるため通る道。
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