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ぶんぶんぶん -
小説
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石井 淳子 電話が鳴った。
私は読みさしのペイパーバックをコーヒーテーブルに伏せ、ひざ掛けを脇によけて立ち上がった。春とは名ばかりで、夜はまだ冷える。テーブルの上の置き時計に目をやると、もう夜の十一時半をまわっていた。今日は夫は出張で不在だ。誰だろう、こんな時間に。
静まりかえったリビングで、電話は執拗に鳴り続けている。息を整えてから受話器を取った。
「もしもし」
「……」
いたずら電話に違いない、と思ったその時。
「……石井さんの奥さん、ですか」
押し殺した低い声だったが、聞き違いようがなかった。あの男。
「どうしているかと思って」
それはこっちの台詞だった。二年ほどつきあった後、振られたのは私の方だ。目をぎゅっとつぶってうつむいて髪をかきあげた。この姿勢でなら痛みに耐えられるとでもいうように。
「会いたいんだけど」
「どうしてよ。今さら、何の用なの」
「……」
最初の動揺が収まって状況がわかってくるにつれ、次第に意地の悪い気持ちが芽生えてくる。沈黙をしばらく楽しんだ後、
「別れた女には会わない主義だったのはどなただったかしら。まあいいわ。明日の夜なら会ってあげる。夫は出張でいないから」
「悪いな。場所は例の店でどうだ」
「あの店、もうなくなったわ。六年もたっているんだもの」
「そうか」
結局、郊外のK駅で待ち合わせることにした。K市は、私の知っている限りでは唯一ホテルのない街だからだ。相手もそれは承知している。
受話器を置くと既に十二時を過ぎていた。コーヒーテーブルへ戻り、さっき伏せたペイパーバックにきちんと栞をはさんで閉じた。脇に置いてあったひざ掛けを、きっちりと畳みなおした。畳み方が気に入らなくて、もう一度広げ、また畳んだ。手は動いていたが頭の中は真っ白だ。六年間も音信不通だったくせに、今さら会いたいなんてどういうこと?しかも私は人妻なのよ。相談ぐらいなら聞いてあげてもいいけど…。でも、それにほだされるような女じゃありませんからね。
意味もなく部屋の中をうろうろと歩き回りながら、ふと思い立ってバスルームへ急いだ。はおっていたバスローブをはらりと脱いで、バスルームの鏡に映ったシルエットを子細に点検した。鏡は湯気でうっすらくもっているが、あの頃に比べれば多少見劣りはするにせよ、少なくともまだ許容範囲内だということが辛うじて見てとれた。ほっとしたその時、白い像の中に一点、赤っぽいものが目についた。鏡に近寄ってよく見ると、のどもとに小さな吹き出物がぽつりとできていた。
「あら、いやだ。いつもここに乳液をつけすぎるからだわ」
そう考えるが早いか、そのままシャワーの栓をひねった。シャワーはさっき使ったばかりだったが、もう一度のどを洗い、ついでに全身も流した。シャワーを止めると肌の水滴をタオルで丁寧にふきとり、戸棚の奥から埃をかぶったハーブオイルの瓶を取り出して、身体のすみずみまでたっぷりとすり込んだ。
「別に何か期待しているわけじゃないわ。所帯やつれしたと思われたくないだけ」
そう自分に言い聞かせて、明日は身支度に時間がかかるから時間に余裕を見なければ、と考え早目にベッドに入った。会って今さら何を話すのか、考えるだけで気が重くなるというのに、理性とは裏腹に私ははしゃいでいた。手のひらがじっとりと冷たく汗ばむのを感じながら何度も寝返りをうつうちに、いつの間にか眠りについていた。
ちょっとうとうとしただけなのに、翌朝は目覚ましが鳴るよりずっと早くに目が覚めた。家を出る時間より二時間も前から支度を始めた。まずシャワーを浴び、髪のすすぎの湯に一番上等な香水を数滴落とした。こうすると、髪の動きに合わせて自然に香りが広がり、全身からぷんぷんさせるより「効果」が高い。洗髪が済むと、何種類ものブラシを使い分けながら髪をブローする。お次はメイク。上品なカップルが多いK駅周辺の店は、どこも照明はソフトだ。キャンドルやランプのみの店も多い。それに合わせて、メイクもやや濃いめに仕上げた。ルージュは、キャンドルの黄色い光に負けないようあくまで紅く。
クローゼットを開けて洋服選びにかかる。ヌバックのスーツやツイードのジャケット、華やかなデザインのワンピースなどを順に手にとってみる。しかし結局、敢えてプレーンな黒のタートルネックのシャツにした。やはりお洒落してきたと思われるのはプライドが許さない。もう十分お洒落はしているのだが、男は馬鹿だから、服でしか判断できない。少なくともあの男はそうだ。
しかし、一番時間がかかったのは下着選びだった。たんすの引出しごと抜き出して、ひとつひとつ手にとって見る。実用一点ばりのものなら絶対に誘いが断れる。そんな下着を見られるくらいなら死んだ方がましだから。でも、万一断りきれなかったら…?といって、凝ったものをつけているのを見られたら、期待して来たように思われるだろう。悩んだ挙げ句、シルクのさりげないデザインのものに決めた。下着を身につけながら「彼がこれを見たらどう思うだろう」とぼんやりと考え、次いでそんなことを考えている自分に気づいて狼狽した。
K駅はいつものように混み合っていた。きちんと時間を計算してきたつもりだったのに着いてみると十五分も早かった。駅前の洋書屋で時間をつぶしたが、十分が限界。あきらめて、待ち合わせ場所に戻った。
「よぉ」
という声に顔をあげると、彼が、いた。六年前と少しも変わっていない。六年間のブランクを取り戻すように、私はまじまじと彼の顔を見つめた。すんなりとした穏やかな眉、切れ長の二重まぶた。色白のおんな顔だ。
「久しぶりだな」
私の食い入るような視線にたじろいだように、一歩下がって目を細めると、
「へえ、きれいになったじゃないか。めかしこんでるわけでもないのに」
と照れくさそうに言った。ばか。
並んで歩き始めると、
「お前、また背伸びたんじゃないの?百七十?嘘つけよ。俺抜かされちまうぜ」
と相変わらずの軽口をたたく。まるで時計を巻き戻して、あの頃に戻ったようだ。
駅から続くプラタナスの並木道をしばらく歩いて、ちょっといいワインを飲ませる店に入った。照明は案の定キャンドル。よかった。
テーブルについてワインが運ばれてくると、グラスを軽く持ち上げ、目だけで乾杯した。彼は白、私はロゼ。これも昔のままだ。しばらく世間話をして、ワインで適当にからだが温まったところで、
「ところで六年間も年賀状一枚よこさなかった人が、今日はどういう風の吹き回しなわけ」
「誘っちゃまずかったかな」
「まあね。今回はたまたま夫がいなかったからよかったようなものだけど。で…?今日はご立派な主義を曲げてまで、一体なんのご用だったのかしら」
彼は明らかに葛藤していた。言いだそうか、やめておこうか。私の顔をじっと見つめ、視線をそらし、グラスに口をつけて白ワインを含んだ。のどぼとけがゴクリ、と上下するのが見えた。
「言いたいことがあるなら言ってしまいなさいよ」
「…いや、やめとこう。顔に『家庭円満』って書いてあるからな」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。
店を出て駅までの並木道をまた戻った。
あの時は電話で突然別れ話を切り出されて、何がなんだかわからないうちにさよならを告げられていた。納得もなにもなかった。何かの間違いだ、誤解さえとければ、絶対にやり直せると、信じていた。
でも、これでやっとけりがついた。今度こそ、もう会うことはないだろう。
私たちの乗る電車は逆方向だ。
改札を通ると、
「じゃあね、さよなら」
私はちょうどその時ホームに滑り込んできた電車に、振り向きもしないで乗った。
細く開いた電車の窓から、柔らかい春の匂いを含んだ風が流れ込んできた。
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