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| 犬は吠えるが、バラ線越は続く。 |
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| ぶんぶんぶん - 随筆 | |
氷見 公美恵「バラ線越え」。 千葉県の片隅、K女子寮で暮らす122人の 女子大生たちは、門限破りのことをそう呼んでいた。いや、きっと今もそう呼ばれているに違いない。 K寮の門限は致命的な 時。合コンではこれから2次会、テレビでは茶の間の話題をさらうドラマが始まろうという時間である。 その 時に1分、1秒たりも遅れてはいけない。恐るべき罰則—風呂掃除(4畳半ほどの浴槽が2つもある!)、草むしり(夏期のみ。炎天下のなか、テニスコートの周りを何周も)、夕食後の後片付け、挙げ句の果てに1ヵ月の外泊禁止が、彼女たちを待っていた。 だから122人の女子大生たちは、その2m はある金網の上、五線譜のように張られたバラ線を、毎夜毎夜越えてくるのである。 バラ線を越えるまでの手順はこうだ。外から友人に電話を入れ、門限までに帰ることができないと伝える。伝えられた友人が果たすべき役割は2つ。1・電話を 切ると素早く玄関へと走り、彼女があたかも部屋にいるように、点呼ノートにその子の名前を書く。2・彼女が登ってくるばら線に一番近い場所の非常口を開け ておく。そしてその子が部屋のドアをノックしてくれるまで、ビクビクしながら時を過ごすのである。 この時の「ビクビク」は間違っても、「彼女が無事に帰ってくることができるかどうか」の「ビクビク」ではない。見つかれば同罪を考えた、「彼女が寮生以外の誰にも見つかりませんように」という「ビクビク」である。 初めてのバラ線越えは、確か大学2年生だった。気付くと腕時計は 時 分、場所は渋谷のはずれ。 秒ほど考えても、私のなかには罰則をこなせる自信は湧いてこなかったから、登る決心をした。 しかし、いざ金網の下に立つとその高さに圧倒されてしまう。2mほどと頭のなかで考えていても、そびえ立つ金網は5mにも感じられる。近所の犬が吠え始 め、気はどんどん焦るばかり。金網が若干広がった(先人たちが登った跡だろう)ところに左足を掛け、右足を隣の家のガスメーターに掛ける。次に右足に体重 を掛けておき、左足を上に進める。手は錆びたバラ線の上へ。そうこうするうち、ようやく両手、両足がバラ線の上に辿り着いた。 バラ線の前には、 畳ほどもある2階のベランダが広がっている。ここに降り立てば終わったも同然、非常口はもうすぐなのだが、ここが一番難所。バラ線の五線譜の一番上に足を 掛けたまま、60cm向こうのベランダの縁に手を投げ出すという離れ業をやらなくてはならない。落ちても打撲、運が悪ければ骨折というところだが、苔むし た大地に朝まで身を置くのは辛い。最後の気力で腕を投げ出し、足を思い切り蹴り上げてバラ線から離すと、私は無事ベランダに到着していた。非常口のドアノ ブをゆっくりと回す。 「お帰りなさい」とそこには、「ビクビク」から解放された後輩が笑顔で立っていた。 「あっ…」と彼女が小声で叫ぶ。良く見ると、私の膝小僧は血まみれで、長さ3cm、深さ5cm程度の口が開いていた。消毒したり、薬を塗ったりしたが、痛みと興奮でなかなか寝付けなかったのを覚えている。 いまも膝小僧に鎮座するこの傷を見るたびに、あの夜の金網の、バラ線の高さを思い出す。今夜もあのバラ線を越える女の子はいるのだろうか。 うん、たぶん、きっといる。 1cm5mmに縮んだこの傷を擦るたび、私はバラ線の向こうで暮らす彼女たちにささやかながらのエールを送る。
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