火曜日, 07.09.2010


バレリーナの孤独 PDF 印刷
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小説

高柳あきら

 その日もいつものようにバーレッスンから始まった。時間前に各自で充分なストレッチを済ませ、すでに汗をにじま せながらバーに向かう。シニヨンからはみ出した後れ毛がしっとりと濡れている。心地よいほどに暖まった体が、柔らかくバーに沿う。バーは何人もの体を静か にうけ止めている。滑らかなピアノの音。腕は三番、足は一番にして息を吸いながらゆっくりと体を倒してゆく。そして少しずつ息を吐きながら、倒すときより も更にゆっくり体を起こす。空にそっと筆を降ろすように優しく撫でる指先。プリエから前横後ろとバットマン・タンジュ。ドゥミ・ポワントのルルヴェをして バーの手を離し五番へ。

  ピアノはアップテンポに変わった。股関節から爪先までがせわしなく動く。上半身は何事もないかのように、表情はあくまでも穏やかに保つ。バーには手を添え るほどに、むしろバーなどないものと思わなければならない。どうしても意識が爪先に集中しすぎるせいかバーを握りしめてしまうと、ギシッとい微かな軌みが 注意を促してくれる。少し息が荒くなるが。決して苦しい顔は見せられない。パッセ、パ・ド・ブーレ、アッサンブレ、ジュテ、パ・ド・ブーレ—一連の動きを 右へ左へと何度も繰り返す。

  ひと通りのバーレッスンが終ると、汗を拭うだけの休憩をとってフロアレッスンに移る。放り投げられたタオルがフロアの端に散らばり、ひと仕事終えたバーが 私たちを送り出す。「ドン・キホーテ」が流れ、先生のよく通る声とカウントをとる拍手がスタジオ中に響く。時々先生は簡単にデモンストレーションを示しな がら、私たちの間をゆっくりと歩いてゆく。本当に一瞬の気の緩みも許されない。グリッサードからジャンプ、連続のピルエットにつなげて最後はアナチュー ド。ひざも足首もぐらつかずに決まったアナチュードは本当に気持ちがいい。

  レッスンが始まってあっという間の一時間半だった。すでにレオタードは汗で色が変わっているが、ここからが今日のメインになる。クリスマス公演のための 「ジゼル」のレッスンだ。あいつかは踊ってみたいと思っていた「ジゼル」。やってみないかと言われた時の奮い立つような気持ちを思い起こしてみる。これは 作品を踊る前に必ず行う心の作業だ。私はバレエシューズからトウシューズに履きかえた。

  クリスマス公演までは日にちがなかった。このために何足のバレエシューズをボロボロにしただろう。今履いているものも親指の裏が薄くなってきている。もし かしたらこれももう長くはもたないかもしれない思うとせつなくなるる苦しいレッスンを一緒に乗り越えてきたという情が移っているのだ。脱いだシューズを そっと両手で包むと、新品の時からは想像できないほど革が柔らかい。そして私の足の形通りに伸びるところは伸びて、世界にひとつしかないシューズになって いる。私にとってバレエシューズは暖かくて優しい。また慰めであり満足感でもあった。だからたとえ擦り切れてしまっても捨てることができず、公演毎にすべ てのシューズとプログラムを収め、押し入れに並べておくのだった。これは決して感傷などではなく、レッスンのための活力であった。

  先生の振り付けは素晴しかった。アダン作曲のロマンチックなメロディに合わせ、スタンダードな振り付けに私の意見までも取り入れてアレンジしてくれた。し かしながらロマンティックバレエというものに分類される「ジゼル」は、テクニックなどで踊られるものではなく、心で表現しなければならない。第一幕より。 私は一途な恋に落ちる。彼が公爵であるとは知らずに、この恋が不幸な結末に終ってしまうとは知らずに。私は一人の人を心から愛しく想う村娘、ジゼル。

  先生は言う。「結果がすべて」だと。いくら努力をしても、ステージで輝ききらなければ、それまでの苦労など無だというのだ。私がこの言葉を聞いたのは、先 生と出会った最初の日だった。さすがにめげそうになったが、更に先生は続けた。「苦労や努力は決してきれいなものではなく、それは単なる自己満足でしかな いのだ」と。厳しい心を持った人だと、芸術というのはこういうものなのか、私はやっていけるのだろうかと思った。最後に「…と思って一緒に自己満足に励み ましょうね」と微笑んだ先生の吸い込まれるような美しい顔は忘れられない。あの厳しさと優しさが私をここまで連れてきてくれたと思っている。

 いよいよ公演当日がやってきた。昨日はよく眠れなかった。どんなに厳しいレッスンを積んでいても、何度ステージを踏んでいても、本番というものは怖いものだ。少しむくんだまぶたに冷たいタオルを押し当てた。

 午前中はリハーサルだった。音響と照明、ステージの幅と奥行きをそれぞれの作品毎にチェックする。バレリーナは勿論のこと、すべてのスタッフが厳しい表情で各々のやるべきことを黙々とこなす。そして最後に衣装を合わせ、本番さながらの通しのリハーサルを行う。

  それが終わるとしばしステージは空っぽになる。一人残ってステージを眺めていた。照明が落ちて黒光りした木がまるで私を飲み込むようだ。目をつむり自分の 演技をイメージするまぶたの裏でフィニッシュのポーズまで踊りきると、一度ぎゅっと強くつむってから見開く。不思議と怖さがおさまってくる。私は幾分軽く なった足で控室に向かった。

  幕を降ろしたその向こうに、観客達のざわめきが聞こえてきた。控室でメイクと衣装を入念に確認する。ほどよくカールしたまつげ、澄んだブルーのアイシャド ウ、きっちりと結ばれ造花で飾られたシニヨン、少し丈の長い純白のチュチュにトウシューズ。鏡に映った私はバレリーナだった。後はステージの上で輝ききる だけだ。ジゼルとなって恋をするだけだ。

 パンフレットを広げてみた。プログラムに続いてバレリーナの紹介が顔写真とともに載っている。レッスン用の黒いレオタードを着て微笑む私がいた。踊り終った後、私はこの笑顔を再びできるだろうか。

  控室に先生が来て開演を告げた。場内アナウンスが観客を静める。ステージの袖に立つと、否応無しに緊張が最高潮に達する。高まる鼓動に優しく肩を抱く先生 の微笑みがあった。ここからひとりだ。いや、いつだってひとりなのだ。大きく深呼吸をする。もう一度先生を振り返ったが、そこにはもう先ほどの暖かな微笑 みはなかった。いつかの言葉と押し入れにしまわれたシューズ達を思い出しながら、ステージをきっと睨んだ。アン・ドゥ・オール!