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| 「向日葵」の記憶 |
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| ぶんぶんぶん - 随筆 | |||
片寄 窓吉一九四五年八月、戦争は終わった。 もの音というもの音がピタリと止んで、白く乾ききった日が何日も続いた。空はことに静かだった。 診療室の電灯のまわりを数匹のふとった蝿がとびまわっていた。 「君は、どうするんだね?」 軍医はひげをあたりながら言った。 「田舎へ帰ります」 奥の部屋から看護婦の声がした。 「ああ、東北だったね」 「はい、青森です」 「そうだ、いつだったか林檎をもらったことがあった。ありゃあうまかったなあ」 「先生ったらあのとき、両手に林檎を持って、かわるがわる噛ったりして……」 「そうそう、あんまり珍しかったもんだから……で、ご両親は?」 「元気でいると思います。田舎へ帰ればわずかですけど田畑もあるし、食べるには困らないから……」 「そうか」 「先生は?」 「おれか?」 軍医は剃刀を宙に浮かしたまま、 「おれはどうなるのかなあ……」 鏡の中の軍医の眼は、しばらくはあらぬ方を見つめていた。いきなり剃刀が動いた。軍医は鼻下にたくわえたひげを容赦なく剃り始めた。
私は軍医の後ろの椅子に待たされていた。鏡の中で、二、三度、軍医の眼と私の眼とが出会っていたが、軍医は別に気にする様子もなく、看護婦との会話を楽しんでいるようであった。 この二人は、どうしてこんなふうに明るく喋りあっていられるのだろう——私はさっきからずっと不思議な気がしていたのだった。 私は診療室へ来る途中、工場の門のところで工場配属の中尉と出会った。後ろ手を組んだ中尉はうつむいたままの姿勢で、一定の距離を行ったり来たりしてい た。私は立ち止まって敬礼した。私たちが�ノモンハン�と呼んでいたノモンハン生き残りの、この若い中尉からは力のこもった答礼と一緒に、必ず叱咤するよ うな激しい声がとんでくるはずであった。 「頑張っているか!」 「はい、頑張っております!」 私も負けずに力いっぱい答えたものだ。 しかし、中尉は立ち止まって私を一瞥しただけで再び歩き出した。何か言いたげな、それでいてけっして何も言うまいとするような中尉の眼に、戦闘帽のツバ元へ挙げた私の右手は、そのままくずれて額の汗をぬぐっていた。 私は叫びたかった。 —日本はどうなるのですか? —私はどうすればいいのですか? つい数日前までの苛烈な生が私から遠ざかりつつあった。私は疲れ果てていたが、その問いだけは心の中で絶えずくり返されていた。私は私の傍にいるだれかれ かまわず、この問いかけについてともに語り合いたかった。たとえそれが空しい結果に終わろうとも、そうすることのなかでしかいま、私の生は考えられないよ うな気持であった。私は軍医とも看護婦とも語り合いたかったのだ。
「先生、さっきからお待ちになっているんですよ」 看護婦が奥の部屋から顔を出した。 「うむ……」 軍医は振り向いて入り口に現われた看護婦へ顎を突き出した。 「これでどうだね」 「あーら、先生、お若いわ!」 はしゃいだ声に私はびっくりして看護婦を見た。それは、学徒動員でこの工場へ来て以来、はじめて耳にした嬌声であった。軍医はテレくさそうにちょっと笑いかけたが、 「どうしたんだ?」 直ぐ真顔になって私の前に立った。 私たちは軍医を�チョビひげ�と呼んでいた。ひげのない軍医—なにか滑稽さが、わずかな間だったが私のなかを通りぬけたようであった。笑いが起こりかけたのであろうか。 軍医は手早く顔を拭いて私の前に腰かけた。 「どうしたんだね?」 軍医はまた同じ言葉を口にした。私は軍医の顔をぼんやり見つづけていた。 「口を大きくあけてごらん」 私は言われるままに口をあけた。 「よーし」 と今度は聴診器をかけておだやかに言った。 「よっぽど無理をしたね、この体は……」 そのとき突然、私の内部に悲しみとも喜びともつかぬ大きな感動がつき上げてきた。 この人は—と私は思った。私の疲れきった肉体から私のすべてを知ってくれた! 私が軍医を「この人」と心の中でほとんど叫ぶように感じたとき、あの夜ただ一度出会っただけになってしまった少女の小さな胸のふくらみが、切なく思い出されてきたのだった。 「はい、大きく息をして、そうそう、大きく、…はい、もう一度…」 急に聴診器を動かす手が止まった。 「どうしたんだ?え?何を…何も泣くことはない。じきによくなるよ。軽い黄疸なんだから……」 私の眼に熱いものがこみ上げ、それはたちまちあふれ出てきた。私は唇をかんで懸命に声をこらえた。 設計室の窓は暗幕で閉ざされていた。その夜、私はたったひとり部屋の片隅の画板に向かって図面をひいていた。 ノックの音がした。ドアのあく音がしたが、それっきりだれも入って来る気配がなかった。机の上の時計の音がはっきり迫ってきた。十時を指してした。 「だれ?」 烏口を投げ出して振り返った。薄暗い扉口に人影があった。人影は不意に動き出した。靴音をはばかるように注意深く—私の前まで来て止まった。 ひどく痩せこけた顔の少女であった。じっと見すえる大きな眼に、私は彼女の言葉を待ちうけた。 「明日からこちらへ参ります」 「ああ」 と私はうなずいた。私はその日の朝、係長から組立工場の挺身隊員が一人、設計室へ転属して来る話を耳にしていた。現場作業が彼女の健康を害するという理由からであった。 「そうか、君のことか、で、どうしたの、こんなに遅く……」 「わたし、どんなお仕事するのか気になったものですから……」 「どんな仕事って…主に図面の整理だ。別にたいして骨の折れることではないよ」 少女は黙りこんでしまった。 「体をわるくしたんだって?」 「わたし、くやしいんです!」 激しい語調が私の言葉を遮った。 「どうして?」 「だって…お友だちが作業しているのに、私だけが現場を離れるなんていやです!」 このひよわそうな少女のどこに、こんな激しさが潜んでいるのだろうか。 しばらく沈黙がつづいた。少女は私に背を向けると暗幕を細めにあけて外を眺めた。 「家、どこ?」 「女子寮」 「一人で帰るの?」 「お友だちと一緒」 少女は明らかに私と話すことを嫌っているようであった。窓の外は各工場の灯りが淡く洩れて金属的な音が響きわたっていた。きっと組立工場の灯りを見ているのだろうと私は思った。 「無理しちゃだめだな」 「みんな無理してるんです!」 「そう、みんな無理している」 私は少女の言葉をそのままくり返してから、あとは半ば独り言のようにつづけた。 「こんなこと、いつまでつづくのだろう」 「え?」 と少女は驚いたように振り向いた。 「ねえ君、ぼくは、日本はもうおしまいのような気がするんだ」 瞬間、立ちすくんだようになった少女の幼い唇がふるえて、全身で私の言葉を強く否定しているようであった。 「嘘です!そんなこと!」 少女は少しずつ後ずさりしはじめて、急に背を向けると、扉口へ向かって駆け出した。 「嘘!」 ドアが勢いよく閉まった。 「待って!」 私は立ち上がって叫んでいた。階段を駆け降りていく音がした。私は窓をあけた。ちょうど表へとび出した少女は、三階の私の方を見上げたようであったが、そのまま守衛所の灯りの方へ走り去ってしまった。 私は興奮していた。ふうっと薄い膜のような悲しみが私の興奮を包んだ。私は少女の小さな胸のふくらみを想った。少女を呼び止めてどうしようというのだ。私 にいま何ができるというのか。ただ私は無性に少女がいとおしかった。たとえ、この世のすべてが破壊しつくされようとも、この少女だけは生かしてやりたかっ た。 その夜から翌朝にかけて大空襲となった。工場の大半は破壊された。女子寮は完全に灰燼と化した。そして数日後、私はこの診療室で、女子挺身隊員全員十二名の死を知ったのだった。
軍医は私の胸と背中から筋骨を確かめるように叩いた。 「もう戦争は終わったんだよ。早く体をよくすることだ。きっと君はいま、何をしてよいのかわからないでいるんだと思う。天皇の放送があったときからおれ だって同じなんだ。広島と長崎に投下された新型爆弾の話を聞いただろう。詳しいことはわからんけど、その恐ろしさはおれたちの想像以上のものらしい。日本 はこれからどうなるのかおれにもわからない。だがなあ、これだけは言えるんだよ。これからは、どんな苦しいことがあったって、おれたちにとってはそれはい ままでのどんな苦しみよりはずっといいんだ。比べものにならないほどいいんだ。それは人間にとって素晴しいことなんだ。それに君は若い。これからだ—そう 考えなきゃいけない。ただ忘れてはいけないことは、おれたちは生き残ったんだということだ。生き残ったということは、多くの死んだ人たちがあるということ なのだ。おれたちはだから生き残りとして生きていくことだ。こいつをけっして忘れてはいけないよ。」 私は涙をたらしたまま軍医の眼を見つめていた。軍医の眼からも涙があふれ出ていた。「頑張っているか!」軍医は�ノモンハン中尉�の口まねをして軽く私の肩を叩いてから、机に向かってペンを執りはじめた。 翅音がして、もつれあった二匹の蝿が私の膝へ落ちてきた。オスの尻とメスの尻がくっつきあって、オスはメスと直角に突き立って、水平に広げた翅でビビビビビと私の膝を叩いた。 ダン! 突然の銃声だった。 「なんだ?」 軍医と看護婦が重なるようになって窓から外を見わたした。 人影のない白昼の工庭の向う側に、爆撃でくずれ落ちた機械工場の錆ついた鉄筋が奇妙な格好で雑草の中に突っ立っていた。その曲がりくねった鉄筋に渡した竹竿に、白いシャツが一枚ダラリと下がっていた。 そこへ半裸の二人の工員がのっそり現われた。地下壕の中で昼寝でもしていたのであろう。二人はゆっくりとあたりを見まわし、空を仰いで渋面をつくった。 守衛が彼らの傍を駆けぬけて来た。 「先生!」 守衛は窓際まで来て息をはずませていた。 「どうした?」 「中尉がピストルで……」 「そうか」 軍医は急に厳しい表情になった。素早く室内にとび込んで鞄をかかえて窓からとび出して行った。看護婦も窓からとび出した。守衛がそのあとを追い、二人の工員も続いた。 私の肉体から最後の力がぐんぐんぬけていくようであった。
—真夏の白昼の空に、「ウァー」とすさまじい喚声がひろがる。 鋭く光る銃剣が構えられたまま、恐ろしい勢いで、群立している向日葵の前を一直線に走って行く。 「イヤッ!」 私たちは藁人形の標的近くで構え直して、気合いとともに刺突しては退き、それを何回もくり返す。 中尉がその傍に立っている。 「おれのまわりに円形に集まれぇ!」 中尉は右手をまっすぐに挙げて、いきなり駆け出す。中尉は向日葵の中に立つ。 「奴らは、こうして切るんだ!」 サッと軍刀が光る。向日葵の大きな花がバサッと地面へ落ちる。
私はハッとして顔をあげた。 工庭にはだれもいない。空は静まりかえり、ただ鋭い太陽の白い反射があるばかりであった。せみ
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