火曜日, 07.09.2010


バニーガールのためいき PDF 印刷
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悪い良い 
ぶんぶんぶん - 小説

本田ノリコ

 まず、心の中に、傷を持っているということ。そして、その傷に気づかずに、静かに戸惑いという血を流し続けてい るということ。その姿は、小さな動物が、物音におびえて震えている様を思い出させる。怖がらなくていいのよ。こっちにおいで。私が抱いていてあげる。私の 手の中で、「安心して」震える動物を見て、私はいとおしさでいっぱいになる。

 でも、最初にあの男を見た時は、傷ひとつない様に見えた。どちらかというと、そんなものに気づかないぐらい鈍感で、元気で、偉そうなやつなんだろうな、ぐらいに思っていた。あの男は、私の中でどうでもいい存在だったのだ。あの瞬間までは。

 引っ越しをして、一人になった私は、穏やかに暮らしていた。

 思っていた通り、私は一人でも、全然平気だった。一日ごとに、別れた彼のことを思い出す時間が減っていった。確かに一生懸命愛したけれど、今頃何やってんのかなとも思うけれど、もう、私は、私のためだけの食事の用意にも、すっかり慣れている。

 そこには愛する人の笑顔はない。けれど、何もかもが、自由だ。満月の宵、ふらりと散歩に出かけるのに、行き先を告げなければならない人は、今はいらない。

  初めて一人で暮らすこの街。カチャカチャと食事の用意の音を伴奏に暮れる夕日。屋台のたこ焼き屋のソースの匂い。魚屋の前でおこぼれをもらおうと待ってい るノラ猫。ゆっくりと自転車をこぎながら、そんな当たり前の風景を愛している自分が、とても自然で、好きだと思った。私は、そんなことに今さら気づくほ ど、彼の顔しか見てなかったのだ。

  大学は四年生になって、卒業論文の面接だけに行けばよかったし、就職活動もあまりピンと来ない。引っ越しのために一時中断していたバイトをまた始めよう、 と思っていた。バニーガールの仕事は慣れるまでけっこう大変なので、続かない子が多く、いつでも人手不足なのだ。私は、まだ空で店の電話番号を覚えている ことに気がついて、少し笑った。 

 バニーガールの衣装は、やっぱり私によく似合う。七号のサイズは、まるであつらえたようにぴったりだ。

 店は相変らず忙しい。何もかもが、前と同じに見える。けれど、今は、私のためだけに働いているのだ。

  終わる時間が来ると、飛ぶように家に帰っていたから、ほかのバニー達と飲みに行ったこともなかった。男と別れるためだけに始めた仕事。こんな店で、友達な んかつくる気ない。仕事がやりやすい程度の仲の良さだけ保っていればいい。でも今は違う。何時に帰ったっていいんだもの。単純に遊び歩きたかった。水野や 桑田(ちなみにこれらの名前は本名ではない。バニーガールには、巨人の選手の名前がつけられていた。まったく、マネージャーの山田のセンスはサイテーだ。 しかし、それを喜ぶ客が多かったのも確かだ)と飲みに行くようになっていろいろ話を聞くと、けっこう共通点があって、私たちは少しずつお互いを知るように なった。

 その頃、店には三人の主任がいた。三人とも、私服の時は大学生といってもばれないぐらいの年齢で、コンパニオンよりは若くない私たちには、店の愚痴やコンパニオンの悪口をこぼしていた。

 その中の一人が、坂上だった。

 初めて彼が私のマンションに来た日、ドアの表札を読んで「原田さんか」と言った。その日のうちに私たちはセックスをするのだけど、それは彼が私の本当の名前を知った日でもある。

 彼は強引に住所を聞き出し、真夜中に強引にタクシーでやって来て、強引に私を抱いた。いや、正確に言おう。セックスは強引ではなかった。それは私も望んでいたことだったから。抱かれた後に気づいたのだ。男の肌が恋しかったことに。

 「お前、俺とつきあえよ」

 その言い方はいつもの彼のように傲慢だったが、様子は、まるで私に懇願しているようだった。いつも明るく、大きな声で笑っている彼とは全然違っていた。とても真剣で、いじらしかった。

  私は、恋人でもない男とセックスするのは初めてで、それがちっともいやじゃなくできたことに、驚いていた。前の男にはない勝手さが新鮮だったのだ。この人 と、自分は、つき合うだろうと思った。私の返事を待ちながら震えているこの男が、いとおしかったのだ。あっさりと、彼は「彼」になった。でもその前に、ひ とつ、聞きたいことがあった。

 私のこと、好きなの? そう尋ねると彼は、まあな、と答えた。

                   ★

 誰でもよかったんだ。そんなにいやな相手じゃなかったら。まあ、あいつならいいかな、ぐらいに思っていたんだ。始まりは、そんなふうだった。いつでも。そして適当に利用して、適当にセックスして、適当に利用されて、別れる理由ができると自然に離れていった。

 新宿に来てからがむしゃらに働いて、二年。ちょろちょろ女がいたこともあったけど、いないと困るっていう女じゃなかったと思う。

 今度も、最初はそうだった。目の前に、あいつがいたから、あいつにしたんだ。

 でも、ドキドキしながら、精一杯冷静を装って、日本人じゃないことを告げた日から、あいつは、オレにとってたった一人の大切な女になった。生まれて初めて、失いたくないと思ったんだ。

  店が終わるのが十二時。オレは後かたづけや伝票の整理で一時半頃まで仕事があった。あいつは毎日、深夜まで開いている喫茶店でオレを待っていた。それから 二人で飲みに行ったり、コンビニエンスストアに買い物に行ったりした。自分の好きな女と過ごす時間が、こんなに楽しいなんて、知らなかった。そして、その 女は、自分のことを理解してくれている。

 オレは毎日彼女を抱いた。彼女の体に、オレを刻みたかったから。あいつは、ほとんど自分の家に帰らないで、毎日二十四時間近く、オレと一緒にいた。オレには心を許し合っている友達がいなかったから、時間をすべて、女に使えたんだ。それはあいつも同じみたいだった。

 それまで、パチンコやポーカーゲーム、競馬なんかで無駄づかいしていた金も、すべて二人のことに使うようになった。プレゼントなんて買う柄じゃないから、食事代や、タクシー代をオレが出してやってただけだけど、それまでより何倍も意義のある金の使い方に、満足していた。

 金——。オレを守ってくれるもの。オレに自身と力を与え、安心させてくれるもの。

 今は、それは違うような気がする。あいつとつき合い始めてから、段々そう思えてきた。

  「オレはさ、昔からすげえ金で苦労してきたわけよ。

  だから、もう、絶対に、金のことで悩んだりしたくないの。

  あるんだったら、惜しみなく使う。

  いい服着て、いいもん食べて、いいとこ住みたいの。」

 珍しく先にあいつをオレの部屋に帰した日。勘違いしてあいつはオレの夜食を買っていなかった。金を渡してあったのにだ。頭に来たオレは、当てつけの意味もあって、炊飯器に残っていた少し黄色くなった飯粒に、塩をかけて食っていた。

 あいつはそれを黙って、悲しそうな顔をして見ていた。

 「そんなにさあ」

 「何だよ」

 「そんなに、お金にとらわれてるわけ?」

 とらわれてるって何だよ。今まで苦労してきたぶん、楽したいと思ってるだけじゃないか。

 「何それ」

 「そんなふうに思ってるってことは、すでに、お金に振り回されてることだと思うな」

 金になんて、振り回されてない。オレは、金を使って、人を操りたいと思っている。なのに何で、そんなオレが金に振り回されなきゃならないんだ。

 でも、オレは、そのまま黙ってしまった。何となく、反論できないような気がしたんだ。その何となくは、段々絶対に近づいてきて、その夜はもう、あいつと口をきけなくなってしまった。

 今、大切なのは、金よりも、オレの存在を支えてくれているこの女なんだな、みたいなことを考えていた。

 もし、オレがもっと金のない人間だったら、こいつはオレから離れていくだろうか? 

 今、オレが突然仕事がなくなって、一文無しになったら、こいつはオレから離れていくだろうか?

 そうだ、オレは心の何処かで、いつもこの事を気にしていたんだ。

 そりゃあ大した給料もらってるわけじゃないけど、でも。

 ちょっと照れるけど、「愛」と「金」って、何なんだろうな……。