火曜日, 07.09.2010


森で PDF 印刷
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ぶんぶんぶん - 小説

高柳あきら

 それは、蒼く蒼く、深い深い森の夜。月光も凍てつく森に、彼はやってきました。
 私はその夜、初めて彼を見ました。

 もしかしたら、彼はもうずうっと前からこの森に足を運んでいたのかもしれません。でも私にはわかりませんでした。一日も早くさなぎになりたくて、夢中で樹液を吸う毎日だったのですから。

 月の光は不思議です。その夜は今までに見たことのないほどの、白く透きとおった光。何か信じられないようなことが起こったとしても、素直に受けとめられそうでした。(例えば私が白鳥になってしまうとか!)

 そんな夜、私はさなぎになりました。そして彼の姿に初めて気がついたのです。

 彼はゆっくりと歩いて行きます。真っ白いキャンバスを抱えて、草を柔らかな音で踏みしめながら。そして(まさにそこが運命の場所であるかのように)立ち止まると、丁寧にキャンバスを立てました。

 夜の森に白いキャンバス。まるで月がそこだけを照らしているような、そうでなければ、キャンバスが月光を吸い込んでいるかのようでした。

 彼はぐるっと一回り、森を見渡しました。もちろん私に気づくはずなどありません。広い森の中のちっぽけな私。手を動かすことも足を動かすこともできない、私はさなぎ。

 彼はキャンバスの前で大きく深呼吸をしました。少しだけ袖をまくった腕をうんと伸ばして。森の新鮮な空気がすべて、彼に向けてすがすがしい流れをつくります。(私のなんともあやふやな彼への思いを乗せて!)

 彼は描き続けます。繊細で力強い動きで。私といえば、時のたつのも忘れ、その動きをじっと眺めていました。(じっとしていることしかできないのですが。)あまりにも美しくて夢のようなこの夜の風景に酔いしれて。

 彼の背中から見え隠れするキャンパスに描かれた森は、ここに存在する森に溶けていきます。(でもいくら彼が忠実に描いてもいても、完璧に森に隠れたりはしませんでした。月の光が少しばかりホワイトを効かせすきてしまったから!)キャンバスが森にほとんど溶けてしまうと、彼は踊る森と月の妖精。

 あの夜からというもの、月の美しい夜には、決まって彼はやってきました。夜の森を描くために。

 そしてどのくらいの年月がたった頃でしょうか。その夜も、あの記念すべき夜とまったく同じ月の光が降りそそいでいました。

 彼はいつものように森を描き終わると、筆やキャンバスを片付け始めました。そして私はそれを合図に、彼におやすみなさいをしました。いつの間にか、それが習慣になっていたのです。

 彼がここから去ってしまうのは寂しいけれど、次の夜までの楽しみができます。だからその夜も、心からのおやすみなさいをして、一日の終りを彼に告げたのです。もちろん、月に今夜もありがとうと言って、明日も彼を美しく照らしてくれるようにお願いすることも忘れませんでした。

 月の光りは不思議です。あの夜と同じ光は、またもや私に驚きを与えました。彼が私の方を振り向いたのです。

 彼は少し早足で、こちらへ歩いてきました。

 気づいてくれたのですね。あなたのことをずうっと見ていた私に!

 彼は私の目の前で立ち止まりました。そして白く長い腕を私の方へ伸ばしました。初めて間近で見た彼の指の、何としなやかで美しいこと。そして私へと! 私の上へ……

 何故今まで気がつかなかったのでしょう。飴色の背中から突き出た茎に。いつの間にか寄生した、その不思議な草のてっぺんには一輪の花。茎は悲しいくらいに真っすぐで、花はまるで月の化身のように、白く白く汚れなく。風に揺れるたびに、私の視界に入ってきました。

 この花にあなたは気づいたのですね。つい舞い上がってしまい、とんでもない勘違いをしてしまったことを、とても恥ずかしく思いました。誰だってすぐに分かることです。だって私はちっぽけな虫。あなたに気づかれるはずのない、私はさなぎ。

 あなたは茎の下の方を軽くつかんで折りました。淡くせつない痛みが私の背中に、心に響いたのをあなたは知りません。傷はどのくらい深いのでしょうか。意識が遠のいてゆきます。

 薄れていく意識の中、彼の後ろ姿を見送りました。さっきまで私の背中で揺れていた花が、こちらに手を振っています。

 おやすみなさい。またここに来てくれますよね。折れた茎に花が咲くことは、もう二度とないかもしれないけれど。

 月の光は変わる事なく森に降りそそいでいます。白く白く、彼の上にも、私の上にも。