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| 爪 |
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| 作者 Administrator |
| 2009年 6月 26日(金曜日) 10:08 |
桐生たう新しい仕事は悪くなかった。そうでも思わなければ仕方がない。全てを失って全てが新しく、それがどんなものでも私は受け入れなければならなかった。引っ越し先にはまだ荷物は届いていなかった。私は家の中を見て回った。床は薄陽を映していてうるさく靴を鳴らした。寝室を兼ねた書斎は狭く、机は備え付けの家具にしては上質すぎるように思えた。使い込まれた感じで小さな傷が幾つもあり、その一つ一つが色濃く浮き出ている。この机でどれだけの人が本を読み、趣味に没頭してきたのだろうか。しかし私にとってここは眠るための部屋でしかなかった。 私は椅子に座り煙草に火を点けた。机の上は磨きあげられていて、これから荷物で埋め尽くされてしまう事が残念に思えた。以前ここに座っていた彼らに整頓してくれる相手はいたのだろうか。 引き出しを一つ一つ開けたみた。木の擦れる感触が指に滑らかに伝わる。きちんと蝋が塗られているのだろう。私は中央の引き出しを開けた。何もないはずのそこは、一冊のノートと小さな灰皿が入っていた。私は灰皿を取り出し煙草をもみ消した。 ノートの表紙には日付が記されてあり、わたしにはそれが日記であるとすぐに分かった。手に取ると中から紙片がこぼれ落ちた。片手でそれらをかき集めると私はノートを開いた。一日の日記はわずか数行で、前にここに住んでいた女の独り言のようなものだった。 『一九九一年十月一五日晴れああ神様。彼を私に導いて下さったのですね。つつましく暮らすものだわ』 ありがちな女の日記だった。日々の幸運を弾むように書き連ねている、私は煙草に火を点けてぺージを飛ばしながら読み進めた。 『一九九一年十一月一七日晴れ 彼は恋人は作らない主義だと言った。でも私の誕生日までに……』 妻の誕生日はいつも二人で祝った。それも今年からはない。私は自分の今と女の過去を重ねた。孤独が他人への嫉妬と好奇心に変わっていく。私は日記を見つけたときから悪趣味に興じていた。 先を急ぐ指に今までとは異なった感触があった。数枚がホチキスで綴じられていたのだ。私は机の上の電灯を点け、爪で留金を外そうとした。すると爪が折れて指先に血が彦んだ。舌打ちして指をくわえると机の角で無造作に留金を外した。 そこには鉛筆で、女が恋したらしい男と自画像らしい笑顔が描かれていた。男は取り立てていい男ではなかった。女は男に比べるといくらか粗く描かれてはいたが、それでもなかなか美しかった。 次の日から男のことは何も書かれていなかった。どの日にも、生きることに消極的な独り言が書き連ねられていた。そこに絵の中の笑顔を想像することはできなかった。 私は日記を閉じた。誰も他人に非難されるような人生など送ってきてやしない。非難されるべきは他人の日記を盗み見た私の方だ。 こぼれた紙片を最後のぺージに挾もうとしたとき私は目を見開いた。 『人の日記を盗み見るなんて最低ね』 赤い文字が私の胸を貫いた。女は私に語りかけているのだ。女は続けた。 『嘘よ。読んでくれてありがとう。あなたはきっと私を寂しい女だと思っているでしょうね。 私の時にもここに老婦人の日記があったの。何げない一文一文が聖書の一節のように思えた。あるいは本当にそうだったのかもね。「私はいつ死ぬやもしれない。ただそれがいつであったかはこの日記が途絶えたときに分かることでしょう」最後にそう書いてあった。彼女は死を感じてはいたけど、恐れて待ってはいなかったと思うの。彼女は私に何か大きな力を与えてくれた。あなたも今私にそういう力を与えてくれているのよ。信じられる? 彼女の日記に比べたらこの日記なんて何の意味もないかもしれない。でも私、あなたを応援したい。もしも今あなたが何かに不安だったなら、遠くて届かないかもしれないけど、心細い応援かもしれないけど、私応援する。ずっと応援してるから。自信をも って。 もう行かなくちゃ。久しい友達との電話のようで終わらせてしまうのが寂しいわ。いつかどこかですれ違うことがあるかもね。街を歩くときの楽しみができたわ。そのときはあなたの折れた爪でも手掛かりにしようかしら。 親愛なる見ず知らずのあなたへ。さようなら。ありがとう。 一九九二年十一月一二日快晴』 折れた爪をかざしながら窓から街を見下ろすと人々が家路につくのが見えた。人は疲れ、人は幸せそうに絶え間なく歩いている。 彼女はもう遠くに行ってしまっただろうか。 私は自分の中に、失っていた何かが再び息づき始めていることに気付いた。それがこれから私に何をもたらすのかはまだ分からない。 私は、今どこか遠い街で背筋を伸ばして歩く彼女を思った。そして静かに、しかし力強く彼女の幸運とその人生を心から願っていた。 |


