火曜日, 07.09.2010


ポテトチップスの午後 PDF 印刷
ぶんぶんぶん - 小説

高島 平

 マンモス団地の脇にある公園は、日曜日の午後にも関らず、いつもよりは閑散としていた。ブランコに乗っている幼児が、その母親らしい女に背中を押され、キャッキャッと声をあげているほかは、二人の老婆がベンチに腰かけてスナック菓子の袋を片手に、何やら世間話をしている程度だ。

「平和なものだ……」

 服部貫一は久々の休日を公園の散歩でも楽しもうと、ブラブラ歩いていた。

 老婆たちが座っているベンチの前を通ろうとしたときだった。老婆の手からスナック菓子の袋が力サッと音を立てて、貫一の歩調にぴったり合わせたように落ちた。

 あっ、と思った瞬間、お菓子は無残にも貫一のスニーカーの下敷きになってグジャッと悲鳴をあげ、眠たげな午後の空気に細い亀裂が走った。

 袋の中身は半分ほど粉々になっていた。

「ああ、おばあちゃん、ごめんね」

 貫一は菓子袋を拾い上げ、老婆の一人に渡した。

 老婆は無言のまま、手渡されたポテトチップスの残骸が入った袋をうらめしそうに見ていた。

 もう一人の老婆が貫一を見上げて、歯のない口でニャッと笑い、貫一のズボンの股あたりを雛くちゃの指で引っ張った。貫一はその手を払いのけたい衝動にかられたが、思いとどまって少し後ずさりしながら老婆の手を軽く握り返し、そのまま愛想笑いをしてやり過ごした。

 空に雲はやや多いものの、適度な湿気を含んだやさしい風が吹いている。煩わしい仕事から解放された時間——。貫一にとっての貴重な時間を誰にも邪魔されたくなかった。

 小一時間ほどの快適な散歩を終え、習慣的に「ただいま」と言いながら、貫一はドアを開けようとしたが、ドアにはカギがかかっているようだった。

 妻の和子も一人息子の勇太もいるはずだ。だから貫一は鍵をもたずに散歩に出た。

「おーい、ただいま。オレだ、開けてくれ」

 拳をつくってスチール製のドアを叩いた。ドアの内側から人の気配が近づき、小さな覗き穴で貫一の姿を確認したのか、カギとドアチェーンがはずれる音がした。

 ドアの隙間から和子の顔が半分、その下から勇太の顔が覗いた。

「どうしたんだ。妙な顔をして」

 貫一は、どこか不安気な表情をしている和子に聞いた。

 和子はそれには答えず、ドアの外を見た。貫一の他に人がいないのを確認してようやく人が一人入れる分だけドアを開けた。

 貫一は家の中を見回し、半ベソをかいている勇太の頭を撫でながら、「何かあったのか」と聞いた。

「さっきね、誰かドアを叩くから出て見たら、誰もいないのよ、そしたら入り口にこれが置いてあったの」

 和子が指差した台所の隅に半透明のゴミ袋があった。中には何か新聞紙に包まれたものが入っていた。

「何だ。爆弾でもあるまい」

 ゴミ袋に近寄ろうとする貫一に和子があわてていった。

「ダメダメ、開けないほうがいいわよ。猫の死骸なのよ」

「猫おっ?……誰がそんなことを」

「私がドアを開けたときには、もう誰もいなかったの」

「ちょっとその辺を調べてくるよ、タチの悪いやつがいるもんだ」

 和子はあわてて貫一のシャツの袖を引っ張った。

「やめといたほうがいいわよ。この辺、変質者が多いんだから。ほら、こないだも4階の小学生の女のコがエレベーターで痴漢にあったでしょ、それから上の階の人がベランダからウンチ投げたっていうじゃない。きっとどこかの子どもがおもしろがってイタズラしたのよ」

「まあ、そうだな。仕方がない、夜になったら自治会の人に処分方法を聞いてくるよ。あのままゴミ置場に捨てるわけにもいかないだろう」

 貫一はそれ以上この問題に首を突っ込む気にはならなかった。せっかくの休日である。

「なんだか、晩ごはんつくる気がなくなっちゃった」

 和子の声にもどこか力がない。

「そうだな、今日は外でうまいもんでも食うか、なっ、勇太」

「うん、焼肉がいいよ、パパ」

 勇太は、貫一の言葉を耳ざとく聞きつけ、うれしそうに言った。勇太の頭の中を占領していた「猫の死骸事件」は、家族と一緒に外食するという彼にとっての一大イベントにとって代わられたようだった。

 そういえば、このところ仕事の忙しさにかまけて家族サービスのほうはすっかりご無沙太だった。

「焼肉より、もっといいとこ行こう。寿司はどうだ、グルグル回るヤツじゃなくて、本物の寿司」

 貫一は、腹に入れば何でもいい、というほうで、家族で外食するとしても、焼肉とか寿司、ファミリーレストランぐらいしか思いつかない。

 貫一の頭の隅には、猫の死骸のイメージがまだ残っていた。今日の場合は「焼肉」よりも「寿司」のふさわしかろうと思っての提案だった。

 和子は思いがけず、久々に家族そろって外食することになったことで、表情もやわらいでいた。

「久しぶりねえ。外でお寿司食べるなんて、ねえ勇太」

「うん」

 勇太のほうも元気のよい返事をする。

「そうと決まったら、さっそく出かけるか。まだ晩飯の時間まで少し時間があるから、オレちょっとパチンコでもやってるよ」

「じゃあ、アタシは勇太とスーパーで買い物しているから、後で落ち合いましょう」

 それぞれが出かける支度を始めたときだった。

 トゥルルと電話が鳴った。

 四回目の呼び出し音で和子は受話器をとった。

「もしもし……もしもし……もしもし」

 和子は不機嫌そうに受話器を置いた。

「無言電話……。いやあねえ、この団地、最近多いらしいわ」

 投げ込まれた猫の死骸のこともあり、子供に不安なところをみせないよう、和子はつとめて明るく言った。

「じゃ、行こうか。鍵持ったかい?」

 貫一を先頭に玄関先に向かおうとすると、ドンドン、とドアを激しく叩く音がした。

 貫一と和子は顔を見合わせた。

「はーい。どなた?」

「宅急便で〜す」

 ドアの向こうから若い男の声がした。

 貫一はドアの覗き穴から声の主を確かめた。

 見覚えのあるユニフォームを着て、帽子をかぶった男が手にダンボール箱を持って立っていた。

 ドアを開けると、ダンボールを持った手が先に入ってきた。宅急便の男は貫一にダンボール箱を手渡すと、「ハンコ、お願いしまーす」と事務的な声で言った。

 ダンボール箱は貫一が片手で持てる程度の重さだった。

「はい、ご苦労さん」

 和子が印鑑を押すと、宅急便の男は次の配達先があるのだろう、急ぎ足で去っていった。

「誰から?」

 そう聞きながら和子はダンボール箱に貼られた伝票を見た。貫一の実家からの届け物だった。

 貫一は「猫の死骸でも入って……」と言いかけたが、タイミングの悪いジョークだったので言葉を飲み込んだ。

 ガムテープをはがして開けると、中には貫一の故郷の名物である和菓子のセットが入っていた。

「さあ、出かけるか、帰ってからお菓子を食べよう、なあ勇太」

 外に出ると、先ほどまで少し照っていた陽はかげり、ひと雨きそうな空模様になっていた。

 雨の最初の一滴が貫一の頬に当たった。

「おっ、降り始めたかな」

「傘、持っていったほうがよさそうね」

「ああ、じゃあオレ、傘取ってくるから、先に行っててくれ。あとでスーパーに持っていくよ」

 貫一の部屋からスーパーまでは5分足らずの距離だ。雨が激しく降り出したとしても、和子と勇太がズブ濡れになることもないだろう。

 夕食の時間までにはまだ1時間以上あった。パチンコでもやって時間をつぶそうと思っていたから、傘を取りに帰る時間のロスはたいして気にならなかった。

 貫一は見慣れたドアの前に立って鍵を差し込んでひねり、ドアのノブを引いた。

 開くはずのドアは開かなかった。

 出る時に鍵は締めたはずであった。貫一自身が締めたのだから間違いはない。もう一度鍵をひねってノブを引くと今度はドアが開いた。やっばり貫一の思い違いで、鍵はかけ忘れたのかもしれなかった。ドアを開くときにかすかなためらいがあったが、そのまま部屋に人り、入り口に置いてある傘立てから二本ほど傘を抜き取った。

 奥の子供部屋でゴトッと音がした。確かに人の気配がする。泥棒かもしれない——。貫一は傘の柄を握り締めた。心臓はドクッドクッと鼓動を早め、部屋中にその音が聞こえそうであった。

 貫一は足音をしのばせ、数センチずつ子供部屋のほうへにじり寄っていった。

 二つの萎びた影が貫一の目に飛び込んできた。影の一つが喉頭がん患者のような声を発した。

「アタシのボテトチップのり塩返してくれよお」

「なんだあんたたちはッ! 人の家に入り込んで何してるんだっ!」

 貫一はすぐに公園にいた二人の老婆の顔を思い出したが、相手が雛くちゃ顔の老婆二人だとわかり、数分前の緊張感はやや薄れていた。相手が屈強な強盗ではなく老婆であることに安堵感を覚えたせいか、だんだん声高になって怒鳴りちらし始めた。

「何で人のウチに勝手にあがり込んでいるんだっ! 年寄りだからといって、やっていいことと悪いことがあるんだよっ」

 貫一がそう言い終わるかどうかのときだった。一人の老婆が素早い動作で貫一に向かって粉のようなものを投げつけた。

 一瞬のことに貫一は顔をそむけるヒマもなかった。両目に激痛を感じる。粉は口の中にも入ってきた。ザラッとした感触と味は塩気のついたポテトチップスの粉のようだった。

 貫一はしきりに目をしばたかせたが、あまりの痛さに目を開くことができなかった。一〇秒か二〇秒か、それ以上経ったのか貫一自身にはよくわからなかった。チック症のように目をパチパチさせて前を見たが老婆たちの姿はない。

 背後に気配を感じ、後を振り返った。

 ズン、と貫一の後頭部で音がしたような気がした。鼻先がキナ臭くなり、激痛とともに首筋と脇の下がひんやりしてきた。まぶたの裏では白く光る班点が無数に泳ぎ始めた。

 脇の下に生温かい汗がにじんできた。意識が遠のく。貫一の脳を覆ったどす黒い色は次第に乳色になっていった。

 ——チューニングの狂ったギターの音が遠くで鳴っているような気がした。その不快な音が耳の奥まで届いてきた。ギターの音と思っていたのは、どうやら人の笑い声のようである。それも一人ではなく複数だ。妙に淫靡で、決して明るく華やいだ笑い声ではなかった。

 貫一は日曜日の朝、たっぷり寝坊を楽しんだ後の思考力のない時間が続いていると思った。背中には自分のベッドの感触が確かにあった。貫一は跳ね起きようとした。しかし手足の先が空気をかき混ぜただけで、身体はピクリとも動かなかった。眼をしばたかせるとゴロゴロする。

 数人の老婆が貫一を取り囲んで見下ろしてしていた。老婆の人数は五人まで数えることができた。

 貫一の手と足は荷造り用の紐でグルグル巻きにされ、口にはガムテープが貼られていた。貫一は獣じみた嘘り声を上げた。

「アタシのポテトチップのり塩、返してくれよお」

 あの老婆が涎を口の端に垂らしながら、貫一の顔を覗き込むようにして、目ヤニの溜った顔を近づけてきた。老婆の吐く息は酒とタバコを飲み過ぎて嘔吐した後のような臭いがした。

 貫一は顔をそむけたが、老婆は骨ばった手で、貫一の顔をぐいっと正面に向けた。

 老婆は着ていたブラウスのボタンをはずし始めた。ブラジャーはしていない。張りのない垂れ下がった乳房が貫一の鼻先をくすぐった。貫一は首を左右に振って逃れようとしたが、干したプルーンのように黒ずんだ二つの乳首が貫一の鼻孔を容赦なく襲ってきた。顔の上にある乳房の間から、地肌が薄くなった白髪の塊がゆるゆるとうごめいているのが見えた。

 その正体は貫一の腰にしがみついている老婆だった。老婆は貫一のジーンズのジッパーを下ろし、何のためらいもなくブリーフをずり下げた。貫一は目をこれ以上ないほど見開き、これから起こるであろう事態におびえて激しく体を左右に揺すってあがいた。が、足を押さえている老婆の力になすすべもなく屈した。

「あらあら、この男ったら泣いてるよ。アンタもしつこいからねえ。それぐらいで許してあげなさいよ」

「今日はアンタにいい思いさせたけど、次はアタシも楽しませておくれよ」

「楽しかったねえ、人間生きているうちが華だねえ」

 老婆の一群は観劇の帰りのような調子でしゃべりながら、ドアのほうに向かって動いた。

 貫一には灰色の塊が風に吹かれて動いたように見えた。


 貫一はマンモス団地の脇にある公園のベンチに座っていた。天気の良い日は必ずこのベンチに座って、ぽんやりと過ごすのが七〇歳を過ぎてからの習慣となっていた。

 日曜日の午後にも関らず、いつもより公園は閑散としていた。貫一がスナック菓子の袋を持ってベンチに腰かけているほかは、ブランコに乗っている幼児が、その母親らしい女に背中を押され、キャッキャッと声をあげている程度だ。

「平和なものだ……」

 貫一はそう思った。

 娘たちが二人ほどおしゃべりしながら、貫一の座っているベンチの前をブラブラと歩いてきた。

 娘の手が貫一の持っていたポテトチップのり塩に当たった。スナック菓子の袋は萎びた貫一の手から落ち、カサッと音を立てて足元に落ちた。その上を娘のスニーカーが無遠慮に通った。

「あら、おじいちゃん、ごめんねえ」

 娘たちは屈託のない笑い声を上げて通り過ぎていった。

 貫一は袋を拾い上げたが半分ぐらいは粉々でとても食べられそうにない状態であった。

 娘たちの後姿を見る貫一の目にチロリと青白い光が宿った。