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阿波おどり考 |
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ぶんぶんぶん -
紀行
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福代裕康 踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々……。
「よしこの節」の囃唄でおなじみの阿波おどりは、いまや世界に進出している。
昨夏、阿波おどりを徳島市に見る機会を得た。本場の阿波おどりに接してみて、なるほど、世界に進出するだけのことはあるなと思った。「歴史は足にて知るべきものなり」という。これは、江戸時代に『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」を著述した秋田孝季のいったことばであるが、まさにそのことを体験した思いだった。
阿波おどりの起源については、蜂須賀家政が天正十五年(一五七八)に徳島城を完成させたとき、無礼講で町人たちがお祝いに城内を踊り回ったことによると観光パンフレットなどにある。また、精霊踊りであったものから発展したという説もある。
いずれにしても、染料としての藍で経済力をもった阿波の藍商人が、踊りを発展させ、豪華なものにした。藍は肥沃な土地でないと育たない。阿波の北方といわれる吉野川流域が、日本最大の藍栽培地帯となったのは、吉野川が氾濫してもたらす肥沃な土壌のおかげである。元禄時代に全国的に木綿が普及し、その染料として藍の需要が高まり、阿波の藍商人は巨額の富を得たのである。
それはちょうど、ナイル川とピラミッドの関係に似ている。ナイル川が毎年定期的に氾濫し、下流地帯に肥沃な土壌を形成、豊かな実りをもたらせた結果、古代エジプト王朝を繁栄させた。それがあのピラミッド群につながったように、阿波おどりは、富裕な藍商人を生み出した四国三郎といわれる吉野川と深い関係があったことになる。
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